チラ裏レベルの人生記(仮)

自分が自分で無くなった時に、自分を知る為の唯一の手掛かりを綴る、極めて個人的な私信。チラ裏レベルの今日という日を忘れないように。6年目。

ペードラで詰む。

最近、脱法ドラッグでラリってる最中に運転して、人を跳ね飛ばすみたいな陰惨な事件をよく見かける。いまだに飲酒運転も絶えないのだから、さもありなんな気がしないでもないけど、法が及ばないのなら技術的にはよ解決して欲しいと思う。更に言えば、アクセルとブレーキの踏み間違いなんかも、いい加減なんとかならんものかと。もちろん各社研究は行っているのだろうけど、EVだのFCVだのでしのぎを削る前に、克服すべき課題があるんじゃないかしら。まぁ、その辺すっとばして完全自動運転の車が路上を走り出しそうな勢いなのだけど。個人的には、運転は全て機械任せにして、人間がそこから解放されるトレンドを歓迎したい。

と、万年ペードラでもはや路上を走ることすら適わないおっさんがボヤいてみたのだけど、僕自身は運転に適正があるとは思えないのよね。優柔不断だし、空間認識能力に欠けるし、剰えメンヘラでおクスリ飲んでるワケだし。僕が路上に出ないことは、全く公益に適っているだろう。それでも、運転できない、或いは運転しないという状態では、職探しは非常に厳しい。これがガチな現実。都心部で安穏とリーマン稼業やるなら、まだなんとかなるかも知れないけれど、地方なんか運転できないとオワコン以前に何も始まらないのさ。場所によっては一端の社会人扱いすらされなかったりするし、そもそも車がないと職場に辿りつけなかったりするワケで。なんというか「ペードラでゴールド免許」って、「アラホーでDT」という比類なきスペックよりいただけないですわ。

運転はしたくないけど、生きていくにはやむを得んのかのう。しかし、ペードラ離脱しようにも、講習受けるとなると先立つモノが要るからのう。どうしたもんかのう。「まだ自分で運転して消耗してるの?だっせーw」みたいな時代の到来を切望します。あーあ。

 

映画鑑賞記

白石和彌監督作「凶悪」(2013)

ある死刑囚による雑誌記者への告発から明らかになった、通称「茨木上申書殺人事件」を基にした社会派サスペンス作品。

雑誌「明朝24」の編集部に、元暴力団組員で死刑囚の須藤(ピエール瀧)から手紙が届く。記者の藤井(山田孝之)は編集長の指示で、収監中の須藤に面会へと赴くことに。須藤には死刑判決が出されており、最高裁へと上訴中の身であった。その彼が藤井に語ったのは、まだ供述していない3件の殺人と、彼が「先生」と呼ぶ首謀者で不動産ブローカー木村(リリー・フランキー)の存在であった。木村に裏切られた挙句、自分だけが刑に処される事を強く憤るあまり、自らの余罪を告白し、それを記事にしてもらう事で木村を追い詰めたいというのが、須藤の願いだった。告発を聞いた藤井は、記事にすべきだと編集長に掛け合うも、信ぴょう性やスクープ性の点で弱いと返事はつれない。それでも藤井は、須藤との面会と裏付け取材を続け、木村と須藤が共謀した殺人事件の全貌に肉迫していくのだが、その余りに凶悪で残虐な手口に義憤を感じた彼は、次第に取り憑かれた様に木村の追求に傾倒していく。

「上申書殺人事件」の存在すら知らなかったのだけど、作品で描かれている内容はありのままの実話らしい。藤井のパーソナリティに関しては創作なのだろうけど。老人に保険金を掛けて殺す、老人を殺した上で土地を奪って転売するなど「先生」が計画を主導し、須藤とその舎弟が実行に及ぶ事で、彼らは億単位の金を手にしていたそうだ。作中で「先生」が、殺せば金に変わる老人達を油田に喩える描写があり、須藤もまたその手法を錬金術だと表現していた。「先生」は老人殺しに味をしめ、良い鴨探しに老人ホームを回っていたらしい。なんとも悍ましい奴らだ。事実は小説よりも鬼なり。しかも、死刑囚の告白がなければ、また記者がそれを真剣に取り合っていなければ、事件は明らかにされなかったどころか、いまだに老人殺しが続いていたかも知れない。暗鬱だ、いやはや。作風はそれなりにバイオレンスな描写が多く、なかなか強烈。キ印どもめ。しかし、そんなキ印達を演じるリリー・フランキーピエール瀧の怪演ぶりは素晴らしかった。

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