ジョン・テイラー監督作「ヒトラーを殺す42の方法」("42 Ways to Kill Hitler" : 2008)[DVD]
ヒトラーが権力を握った時から、ナチス政権最後の日までに、少なくとも42あった暗殺計画の軌跡を追うドキュメンタリー作品。
1932年、42歳のヒトラーはドイツ首相に立候補する。彼を嫌い、暗殺を企てた者達がいるが、計画は不十分だった。暗殺計画1は1932年3月。ヒトラーは国中を回り、観衆に迎えられる中、その身辺は無防備だった。ヒトラーの乗った列車が銃撃されるが、ヒトラーは無事だった。その後、立て続けに二度目、三度目の計画が実行されるが失敗に終わった。
1933年1月、ヒトラーは首相に就任したが、権力に比例して命の危険も高まっていった。その後の五年間で、花束の中に毒を潜ませたり、万年筆に爆発物を仕込んだりと、実に16の暗殺計画が企図された。ヒトラーは人気を過信し油断していた為、五年以上、警備体制が不十分だったが、やがて強化され始めた。
暗殺計画20の頃になると、暗殺者達はより巧妙な計画を立てる様になった。1938年11月のミュンヘン。ミュンヘン蜂起の記念パレードで集まった観衆の中に、ヒトラーを狙う男がいた。22歳のフランスの神学生、モーリス・バヴォーである。当時、ヒトラーをキリストの敵とみなす者が多かった。バヴォーは半自動拳銃シュマイザーを買うと、郊外で狙撃の練習をした。バヴォーはパレードの厳戒態勢を潜り抜け、ヒトラーが精霊教会の広場に近づいた時に、狙撃するつもりだった。
ヒトラーの暗殺計画について詳述した本を著したムーアハウスと、兵器と警護の専門家グレシャムにより、当時の状況の検証が行われる。二人は7.5メートルの距離から銃撃の成功する見込みを調査し、暗殺が十分に可能だった事が判明する。
しかし、バヴォーは、ヒトラーが近づいた際に観衆が一斉に右手を挙げた為に、銃撃の機を逸してしまった。その後、バヴォーはフランスへ帰る途中に無賃乗車で逮捕されると、銃とミュンヘンの地図を押収され、ゲシュタポによる拷問の末に、暗殺容疑で処刑された。この事件を境に、ヒトラーは観衆の前で行進する危険性を認識し、1938年以降パレードは中止された。
やがてヒトラーが暴君化すると、暗殺計画も増加した。オーストリア併合に続き、チェコ侵攻が行われると、36歳の家具職人ゲオルク・エルザーは国が悲惨な戦争に向かう事を恐れ、ヒトラー暗殺を単独で企図した。暗殺計画21である。
エルザーはバヴォーの計画から一年後の記念日に、演説中のヒトラーを手製の時限爆弾で爆死させる計画を立てた。熟練職人のエルザーは優れた技術を持っており、用意周到で緻密な計画だった。1939年秋、エルザーは演説会場となるミュンヘンのビアホールの演壇の後ろの柱に爆弾をはめ込む為に、毎晩閉店後のホールに忍び込み、暗闇で柱の中を削り、設置する場所を作り続けた。エルザーは、爆発の数日前にスイスに逃亡する為に、二つの時計を組み合わせる事で、144時間後に爆発する様に特殊な時限装置を作り、更に装置の音を消す為にコルクの箱に入れた。
ムーアハウスとグレシャムはエルザーに対する尋問記録から、爆弾の致死力を検証し、暗殺に十分な爆弾が用意されていた事が判明する。
二ヶ月以上の作業の末、エルザーは柱に爆弾をはめ込み、11月5日の夜に設置を完了すると、三日後の夜9時20分に時刻をセットした。8日、ヒトラーはホールで3000人の党員の前で演説するが、直前に演説開始が8時に変更された。ヒトラーは一時間で演説を終えると、駅へ移動した。その後、爆弾は予定通りの時刻に爆発し、ホールは崩壊した。残っていた100人の内、60人以上が負傷し、8人が死亡した。エルザーは爆発直後にスイス国境で拘束され、ナイフと設計図、現場の絵葉書が押収された。エルザーは収容所に送られた後、処刑された。
ヒトラーは事件を機に警備の甘さを認識し、行事前は監視と不審者の逮捕が強化され、爆発物の購入も制限される様になった。
1939年9月1日、ポーランド侵攻によりワルシャワが陥落した。反撃に出たポーランドの地下組織が、10月初旬にヒトラー暗殺を企てた。暗殺計画22である。ヒトラーが通るワルシャワの道路に500キロの爆薬が埋められたが、通過時に爆発しなかった。その二年半後の、列車を襲う暗殺計画23も失敗に終わった。
ドイツがソ連への侵攻を開始すると、スターリンはヒトラー暗殺を決意した。三度の計画の内、計画26にはヒトラーとの関係が噂された女優オルガ・チェーホフが利用されたが、実のところ、二人は深い関係ではなく、失敗に終わった。一方、イギリスも暗殺を企図した。計画27は、アルプス山荘にいるヒトラーを狙撃する作戦だったが、イギリスは反撃を恐れて計画を中止した。
戦局が激しくなるにつれて、ヒトラーの身辺警護も強化された。ヒトラーは公の場に出ることが制限され、ナチスや軍の側近以外との接触が減っていった。そんな中、1943年春に直属の部下達が暗殺を企図した。
エリート将校のトレスコウ大佐は、東部戦線に近い中央軍司令部において、ユダヤ人に対するホロコーストを目撃し、衝撃を受けた。軍が堕落した原因がヒトラーにあると考え、ヒトラーへの抵抗を決意したトレスコウは、同志を募り始めた。1943年3月、トレスコウが所属する基地にヒトラーが訪れる事になり、トレスコウは暗殺を企図する。暗殺計画28である。
トレスコウはイギリス英国製のクラム爆弾で、総統専用機を爆破する計画を立てた。設定時間は30分であり、最大の難関は機内への爆弾の持ち込みだったが、トレスコウはブランデーの箱に隠す事にした。1943年3月13日の朝、ヒトラーが基地に到着すると、トレスコウはヒトラー側近のブラント大佐に包みを届ける様に依頼した。その午後、トレスコウの意を受けた副官が装置を起動させ、トレスコウに合流し、トレスコウからブラントに包みが渡された後、機は離陸した。トレスコウは成功を確信したが、二時間後、機は無事に着陸した。副官が爆弾を回収すると、起爆に失敗している事が判明した。上空では機内の温度が下がり、信管が上手く作動しなかったのである。
一週間後、トレスコウに再び暗殺の機会が訪れた。ヒトラーが兵器博物館を視察する事になり、その案内役は同志のゲルスドルフ大佐だった。ゲルスドルフは、クラム爆弾を再び使用し、演壇に立つヒトラーの爆殺を企てた。暗殺計画28である。エルザーの一件以降、警護が厳重になり、演壇が調べられると推断したゲルスドルフは、爆弾を自分のコートに忍ばせ、ヒトラーの隣に立ち、自爆する事を決意した。当時のドイツ軍には自爆が想定外だったのである。当日、ヒトラーが高官達を前に演説を行った後、ゲルスドルフが案内役に呼ばれた。爆弾を起動したゲルスドルフは、兵器の見学途中のヒトラーにできる限り接近したが、ヒトラーは数分後にその場を後にしてしまい、計画は中止となった。
部下達はその後も抵抗を続け、1944年の春までに銃殺計画が四回、爆破計画が六回、事故死計画が一回企図された。1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦の後、パリが解放され、連合国軍のドイツ進行が成されると、ヒトラーの抵抗勢力は、ヒトラーを暗殺する事で連合国軍と取引できれば、ドイツを救い得ると考えた。
1944年夏、青年将校シュタウフェンベルク大佐もまた、ホロコーストに衝撃を受け、ヒトラーに反旗を翻した。シュタウフェンベルクはその一年前に、アフリカで瀕死の重傷を負い、左目と右手、左手の指二本を失っていた。不屈の精神で奇跡的に生還したシュタウフェンベルクは、ベルリンへ戻り、国内体制の維持を図るワルキューレ作戦の責任者に任命された。シュタウフェンベルクは、ヒトラー暗殺後の国内制圧の為に、本作戦が人材も計画も準備万端であり、最適だと考えると、ワルキューレに同志を動員した。シュタウフェンベルクはその任務上、ヒトラーと定期的に会える立場だった。
1944年7月20日、シュタウフェンベルクはヴォルフスシャンツェの総統本営に召集された。暗殺計画41の決行の地である。本営の警備は恐ろしく厳重で、外部からのあらゆる攻撃を想定していたが、内部からの攻撃に対する警戒はそれほど厳しくなかった。会合の直前、シュタウフェンベルクは30分で起爆する爆弾の一つ目を起動して鞄に隠したが、二つ目を用意する前に召集を命令された為、已む無く二つ目を残したまま鞄を持って部屋を出た。会議が行われている部屋に入室したシュタウフェンベルクは、鞄をテーブルの下、ヒトラーとは一メートルの距離の場所に置いて退室した。その後、シュタウフェンベルクは政権移行の指揮を執る為にベルリンに向かった。シュタウフェンベルクは近距離で爆発を目撃し、内部の人間が全滅したと確信した。地下壕は爆風で窓と壁が吹き飛び、床は崩れ、天井は剥がれ落ちた。20人の内4人が死亡したが、ヒトラーは軽傷を負ったのみで難を逃れた。
ムーアハウスとグレシャムは地下壕跡地を訪ね、暗殺が失敗した理由を資料を元に検証する。その結果、爆風がテーブルに遮られ、ヒトラーに届かなかった事が判明する。テーブルが防護壁の役割を果たしたのである。更に爆破の再現実験が行われ、爆弾が予定通りの二つであったなら、ヒトラーに致命傷を負わせ、暗殺が成功していた公算が高い事が判明する。
シュタウフェンベルクはその日の夜に銃殺された。1945年の春、ドイツの敗戦が目前に迫ると、ヒトラーは国内の基幹施設を、連合国に利用させぬ為に、全て破壊する様に命じた。側近のシュペーア軍需相は破壊命令に反対し、ヒトラーからの離反を決意すると、暗殺計画42、毒ガスを用いた暗殺を企てたが、忠誠心を捨てられずに計画を中止した。
4月30日、ヒトラーは妻エヴァが毒薬を飲んだ後、拳銃自殺を図った。
タイトルがややアジってる感が否めないのだが、これは原題の通りだからなんとも言えない。結局、42の暗殺計画の中でも比較的有名なものについて、再現ドラマによる概要説明と僅かな検証が検証が行われるだけで、ドキュメンタリーとしても娯楽としても面白みに欠ける。42の方法について具に紹介すると時間が足りないのは理解できるが、ざっくりとでもどんな手段の暗殺計画が、どの様に失敗したのかくらいは伝えて欲しかった。しかし、義憤に駆られた市民達が身を賭して、個別に暗殺を企てる様子は、その時代ならではの凄みを感じさせる。暗殺者達の計画が不十分だった面もあるが、運も相当程度に作用する事で、ヒトラーを敗戦直前まで生き長らえさせた事はよく分かった。