チラ裏レベルの人生記(仮)

自分が自分で無くなった時に、自分を知る為の唯一の手掛かりを綴る、極めて個人的な私信。チラ裏レベルの今日という日を忘れないように。6年目。

黄金のアデーレ 名画の帰還

サイモン・カーティス監督作「黄金のアデーレ 名画の帰還」("Woman in Gold" : 2015)[BD]

ナチス・ドイツによる迫害により、故郷のオーストリアを追われて米国に移り住んだ女が、半世紀を経て、生家から収奪された肖像画の返還訴訟に、国家を股にかけて挑む様を描く伝記ドラマ作品。

 

ロサンゼルス。ナチス・ドイツによるオーストリア併合直後に、命懸けで米国への移住を果たしたユダヤ人マリアは、オペラ歌手の夫フリッツを亡くした後、街でブティックを営みながら平穏な日々を送っていた。併合以前、マリアは父グスタフ・ブロッホ=バウアーと母テレーゼ、姉ルイーゼ、叔父フェルディナントと叔母アデーレと共にウィーンで裕福な暮らしを送っていた。アデーレは若くして死んだが、生前にフェルディナントが画家クリムトに描かせたアデーレの肖像画は、財産凍結の際に他の美術品と共にナチによって収奪され、その後、ウィーンのベルヴェデーレ美術館に所蔵され、現在に至っていた。

1998年、マリアは波乱の人生を共にしたルイーゼを亡くす。ルイーゼはマリアより早くフェルディナントに連れられてウィーンを離れ、米国へ逃れていたのだった。マリアはルイーゼの遺品の中から、1948年に弁護士からルイーゼ宛に届いた一通の手紙を見つけると、長年の親友バーバラの息子で弁護士のランディに美術品返還に関する相談を持ちかける。ランディは大手の法律事務所を辞めて独立するも上手く行かず、妻子を抱える身でありながら、奨学金の返済にも追われており、シャーマン率いる大手の法律事務所に転職した直後だった。マリアはランディに、オーストリアの美術品返還法が改定され、昔の訴えが再審理される運びとなった事を知らせると、アデーレの肖像画、通称「黄金の女」を正義の為に取り戻したいと訴え、裁判への協力を求める。手紙によれば、クリムト肖像画とその他4点の作品はアデーレの遺言に基づき、ベルヴェデーレ美術館に寄贈されたとされているものの、弁護士はその遺言状を目にしていないのだと言う。

ランディは消極的ながらもマリアの依頼に応じ、オーストリアの文化省に再審査を要請する翌月末の期限までに、ウィーンで人を雇って遺言状を捜させる意向を示すと、美術品返還を専門に扱う弁護士は米国に三人しかおらず、いずれも金がかかる事を伝える。マリアは幾らも金が無い事を明かすと、片手間でも良いからランディ自身に携わって欲しいと請う。ランディは難色を示すが、マリアはランディの祖父母もまたオーストリア出身であり、過去に繋がりがあるのだと説く。

ランディは「黄金の女」の評価額が一億ドルを下らないと知るや、シャーマンに相談を持ちかけ、一週間の時間を得る。ランディはマリアにウィーンへ遺言状を捜しに行く意向を示すと、折良く美術品の返還審問会が開かれる事から、その場でマリアに発言するよう求める。マリアは大切な人達と思い出を捨てたウィーンに戻るくらいなら死んだ方がマシだと頑なに拒む。ランディは自宅に妻パムと赤子を残し、単身ウィーンへ向かおうとするが、マリアは熟慮の上でランディに同行する事を決意する。

マリアはランディと共に半世紀ぶりのウィーンに降り立つと、かつて過ごしたブロッホ=バウアー家の建物の前に訪れる。その直後、二人はマリアが審問会の為にウィーンに来る事を知った雑誌記者フベルトゥスと遭遇する。フベルトゥスは美術品の返還は実は国のPRに過ぎず、予期せぬ騒ぎになった事から政府が新たに返還にハードルを設けた事を明かすと、愛国者として二人に協力する意向を示す。ランディ達は文化省の担当官を訪ねるが、冷たくあしらわれ、遺言状の入手は困難だと悟る。ランディ達はベルヴェデーレ美術館を訪ね、オーストリアのアイコンたる名画として展示される「黄金の女」に目を見張る。

ランディ達はフベルトゥスのツテを得て、ベルヴェデーレ美術館の休館日に書類の保管庫への立ち入りを許可される。二人は膨大な書類の中から、アデーレの遺言状を含む肖像画に関する資料一式を見つけ出す。1925年、アデーレは43歳にして髄膜炎で死去した。アデーレは1923年に遺言を綴っており、その中で肖像画と他の絵画については『夫の死後に』ベルヴェデーレ美術館に寄贈する事を希望していた。当時、ブロッホ=バウアー家の所有物はヒトラーを始めとするナチ高官の手に渡ったが、アデーレの肖像画は審美眼を持つグリムシッツの目に留まり、1941年にベルヴェデーレ美術館に所蔵された。アデーレの名とユダヤの関係は封印され、後にその肖像画は「黄金の女」と称される様になった。フェルディナントは1945年に死去し、遺言状において自らの残す物は全てルイーゼとマリアに譲る事を希望した。法的な絵の所有者はその代金を払ったフェルディナントにあり、アデーレに譲渡の権利は無い事から、ランディはアデーレの遺言状が無効だという結論を導く。

ランディ達は美術学校で開催される返還審問会に臨む。返還を求める者達は自らの訴えを述べていき、マリアも彼らに続いて、国を追われた立場から肖像画の返還を求める。程なく、ランディ達は文化大臣ゲーラーと担当弁護士ドライマンに面会し、審議の末にクリムトの作品群をベルヴェデーレに留め置く事が決定した旨を伝えられる。ランディ達はアデーレに所有権は無かったと主張するが、ドライマン達は不服があれば裁判になると通告する。マリアは恥を知れと言い放ってその場を後にする。ランディ達は、肖像画の価格を根拠に裁判費用として180万ドルの預託金が必要である事を知り、事実上裁判が無理だと悟って途方に暮れる。ランディ達は最後にホロコースト記念碑を訪ね、帰国の途に就く。

帰国後、マリアは肖像画の返還を諦め、過去は過去として忘れる決意をランディに伝える。ランディは最初こそ金目的だったものの、ウィーンで自らのルーツへの思いを強くし、独自に返還への知恵を絞り続ける。九ヶ月後、ランディは書店でベルヴェデーレ美術館が発行したクリムト肖像画集を見つけ、直ちに購入する。ランディはその足でマリアの元を訪ねると、「国際法に背く収奪」「物品が政府機関の手にある」「その機関が米国内で商業活動をしている」という3つの要件を満たす事から、本件が外国主権免責法の対象になる事を伝える。しかし、マリアは前に進むべきだと説き、消極的な態度を示す。ランディはシャーマンに相談するが、裁判に関わる事に反対され、事務所を辞める。ランディはオーストリア政府に起訴書類を提出すると、半ば強引にマリアを連れて領事を訪ね、告訴状と召喚状を提出する。第二子を身籠るパムは、ランディが独断で事務所を辞めた事に憤る。ランディは自分の中で何かが変わってしまい、抑えられないのだと説き、理解を求める。

程なく、米国で審理が行われ、原告にランディとマリア、被告にオーストリアからやってきたドライマンと米国側の担当弁護士グールドが臨む。グールドは外国主権免責法の成立が事件の38年後の1976年であり、時代を遡っての適用は無いと主張する。ランディはそれが間違いという判例を提示すると、オーストリアでの訴訟には莫大な費用がかかる為に、この様に米国で訴えを起こす事を余儀なくされたのだと訴える。審理の結果、ランディ達の主張が認められる。ドライマンは憤慨し、最高裁まで争う意向を示す。

六ヶ月後、ランディが最高裁に出廷する直前になってパムは破水する。パムは敗訴しても心配は要らず、信念を貫くようランディを励ます。裁判において政府は、遡及を認めれば外交上の深刻な問題が生じかねないとする懸念を示し、オーストリア側の主張を支持する。ランディは両国が協定国であり、国際紛争が生じるとの懸念は杞憂だと反論すると、本件は安らぎを求めて米国にやってきた女が自分の物の返還を求める訴えであり、正義を与えて欲しいと請う。

更に四ヶ月後、最高裁はランディ達の主張を支持するものの、オーストリア側が露骨な引き伸ばし工作を企てている事から、ランディ達は決着まで数年かかると見込み、ドライマンに和解を持ちかける。マリアは絵を美術館に残す代わりに、オーストリア側が不法収奪を認め、補償にも応じるよう提案するが、ドライマンはそれを拒否する。ランディはマリアの許可を得る事無く、ドライマンにウィーンでの三人の調停員を立てた調停を要求し、ドライマンはそれに応諾する。マリアはウィーンで有利な調停案が出るはずも無く、また二度とウィーンに戻りたく無いという理由で調停に反対すると、敗北を認めて静かな元の生活を取り戻す事を望む。ランディは自らの全てを懸け、借金漬けになってまで協力し、返還まであと一歩のところまで来ていると訴えるが、諦観したマリアはランディに一人でウィーンに行くよう促す。

ランディは単身ウィーンに赴き、調停に臨む。調停員の意見が提出されると、ランディは発言を求める。そこへマリアが駆け付ける。ランディは会場に集った人々に対して、アデーレの遺言状は無効であり、肖像画が半世紀の長きに渡って不正取得のままベルヴェデーレ美術館に展示されてきたのだと説くと、今こそ祖国に対して罪を冒した事を認め、その是正を図る時だと訴える。審議の結果、肖像画を含むクリムト作品のマリアへの返還が評決され、マリアは喝采を浴びる。その後、ドライマンは十分な代償と引き換えに、絵を持ち出さぬようマリアに懇願するが、マリアはそれを拒否する。喜びも束の間、マリアは両親との今生の別れに思いを馳せて感傷に浸り、ランディの前で落涙する。両親はマリアが自分達の事を忘れず、新天地で幸せを取り戻すよう願って、マリアを生家から送り出したのだった。マリアは誰もが鑑賞できるよう、美術商ローダーのギャラリーに絵を預ける意向を示す。帰国直前、マリアは生家を訪ねる。マリアは企業のオフィスが入っているその建物の中を見て回り、当時の幸せな暮らしを回想して相好を崩す。

ナチに奪われて68年後にマリアの手に戻った肖像画は、ニューヨークのノイエ・ギャラリーに展示されている。 ローダーの購入額は1億3500万ドルだった。ランディは事件の報酬で、美術品返還を専門に扱う法律事務所を設立し、ロサンゼルスのホロコースト記念館の資金も提供した。マリアは同じ家に住みながら、ブティックの経営を続けた。また、マリアは絵画から得た金を親族や慈善事業、ロサンゼルスオペラの資金に寄付した。マリアは2011年に94歳で死去した。ナチが略奪した10万点を超える美術品は、いまだに正当な持ち主の元に返還されていない。

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