チラ裏レベルの人生記(仮)

自分が自分で無くなった時に、自分を知る為の唯一の手掛かりを綴る、極めて個人的な私信。チラ裏レベルの今日という日を忘れないように。6年目。

3✕3のぼっちズム。

昨日はドカ雪と予想されていたが、思ったほど降らなかった。今のところ、降雪量は例年並みに落ち着いている様だ。ときに今日は帰省ラッシュのピークらしい。もちろん僕には帰省する場所など無いし、あったとしても費用が勿体無いから帰りはしないだろうが。たまにストリートビューで昔住んでいた場所を眺めると、その余りの変わらなさっぷりに驚く。

世間から隔絶され、友人・知人の類が皆無である為に、社会人の嗜み的ツールの年賀状さえ出す相手がいない。手間を惜しんでは社交性を維持できないこのゲンジツが、コミュ障のおっさんにはツライ。今年、ヒトと会話したのは合計何分くらいだろうか。退職してからもうン年間ほど、分単位の年が続いているのだが、ここまで対面のコミュニケーションがカラッキシだと、アタマの働きが致命的に鈍っているに違いない。もともとコミュ障なのに、それに輪を掛けて、ヒト離れが進行しているから、人語を解するのさえ危うい。この日記も日本語としての体裁が保てているか、不安に思いながら毎日書いている。

さて、年の瀬だからというワケでもないのだが、昨日、3枚あるボロボロのバスタオルの内、1枚を新調した。4年弱使ったかしらん。全部一度に新調しないのは単に予算上の都合で、年が明けたらおいおい変えていく予定。ときに、バスタオルは何回使ったら洗濯するかという命題が、ネット界隈で論じられるのをしばしば見かける。僕は基本的に3回使う事にしていて、そうすると3枚✕3日=9日毎にコインランドリーでまとめ洗いする事になる。これといって理由はなく、洗濯の都合で3枚✕3日に落ち着いてるのだが、これを例えば4枚✕3日や3枚✕4日にすれば、コインランドリーの費用を4分の3に低減させられるのに、もうン年も3✕3を続けているのだから、惰性は怖い。僕は阿呆か。

しかし、例えば結婚なんかするとして、こういう「バスタオル何回使うか」問題の摺り合わせや歩み寄りができないと、その他諸々も大変だろうなぁというのは容易に想像が付く。僕は結婚とは無縁で、それどころか家族以外の他人と共同生活したことすらないから、価値観が異なる人との暮らしは苦痛というか無理だろう。やはりなるべくしてお一人様なのだな。これを「ぼっちズム」と称する事にしよう。

 

読了記

ひきこもりと一口に言っても、その態様は人それぞれで、ひきこもりに至った経緯も人それぞれだ。何かのきっかけや適切なサポートさえあれば、さほど難なく社会に出ていける人がいる一方、殻に閉じこもったきり、病的に塞ぎこんでしまい、家族はおろか、当の本人でさえも、どうしたら良いのか分からない人もいる。いずれにしても、社会がそういう人達の心性を理解し、寛容する事が必要で、行政やNPOの後押しをしなければならないのだと思う。

「救済」というと適切かどうか分からないが、ひきこもりの人達を救うためには、向こうから彼らがやって来るのを待つのではなく、こちらから訪れていって、彼らの声にならない声に耳を傾け、何が必要とされ、何が障害となっているのかを共に探る、という根気の要る作業が求められる。こういうのをアウトリーチと呼ぶそうだが、一部の行政を除いては対応が後手後手で、そもそもひきこもりの対象を絞り込めていないし、実態の把握すら曖昧なままだから、ひきこもり問題の公的支援など望むべくもない。明確な根拠もないままに、ひきこもりの定義は34歳以下だとか39歳以下だとかで線引きされ、それより上の世代は統計にも加えられない有り様だ。そうなると40歳超のひきこもりは、ひきこもり状態であってもお役所的にはただの無職とされ、適切な支援やサービスの場から締め出されてしまうワケだ。そこで著者の様な有識者や、NPOが中心となって行っている、先進的な取り組みこそが頼みの綱となってくる。

規模としてはまだまだ小さいが、全国的に大人のひきこもり支援事業を行っている窓口は多数ある様で、社会とひきこもりの人を繋ぐ架け橋として、大変有意義な存在となりつつあるらしい。僕も大人のひきこもりに足を突っ込んでいる状態で、全く他人事ではなく、近い将来お世話になることもあるかも知れない。しかし、福祉は削減される一方だから、悲観せずにはいられないな。

 

映画鑑賞記

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作「複製された男」("Enemy" : 2013)

ドッペルゲンガーと遭遇した男が翻弄されていく様を描くスリラー作品。

歴史を専門に教える大学教授のアダム(ジェイク・ジレンホール)は、同じ様な日々を繰り返す内に抑うつ的になり、恋人メアリー(メラニー・ロラン)との関係も今ひとつであった。ある日、アダムは同僚に一作の映画を勧められ、それをレンタルして観てみると、劇中に自分と酷似する俳優が出演しているのを発見する。驚いたアダムは、その俳優の他の出演作も確認するのだが、他人の空似ではなく、自分と完全に瓜二つであった。後日、アダムはその俳優の所属事務所に赴き、本名をアンソニーというその男の住所と電話番号を掴む。アダムはアンソニーに電話をかけるのだが、アダムの声色はアンソニーの妻ヘレン(サラ・ガドン)でさえ判別が付かぬ程似ている為、アンソニーが誂っているのだと誤解を受けてしまう。当惑しながらも、事実を確認したいアダムと、訝りながらもアダムに興味を持ったアンソニー、2人はいよいよ対面を果たす。2人は姿格好や声まで同じで、それどころか傷跡の場所さえ完全に一致していたが、性格は全くの正反対であり、その事が非現実的な日常へと2人を誘うのだった。

原作が"The Double"で、原題が"Enemy"で、邦題が「複製された自分」という事で、ドッペルゲンガーと出逢ってからの顛末を描く作品なのだけど、何がどうしてこうなったとか細々とした部分は一切語られない為に、正直かなりイミフな内容ではある。いろいろと示唆に富んだ要素は散りばめられているから、想像を逞しく働かせ、あれこれ自己流で解釈するのは楽しいけれど。ネットの情報を見て、答え合わせする様な事は今回はしないでおこう。しがない大学教授が、まるで生き写しの様な俳優を偶然発見するところからハナシは始まる。2人は正と負、陽と陰の様に、真逆な気質の持ち主で、アダムは生真面目で平凡タイプ、アンソニーは勝ち気でアウトローなタイプ。そんな2人が出遭ってしまった為に、アダムの恋人メアリーとアンソニーの妻ヘレンをも巻き込んだ、トラブルへと発展していくワケですな。俗説ではドッペルゲンガーを見た者は死んでしまうらしいけど、本作のオチはどう解釈したら良いのかしら。僕はこの手のイミフなオチに遭遇する度に、狐につままれた様な~という表現しか為し得ないのだけど。「はぁ?コレで終わり?」と全力でツッコんでしまったよ。今年の「はぁ?」大賞でしょうな、面白かったけど。今年は「嗤う分身」という、これまたドッペルゲンガーを題材にした、趣向の全く異なる作品を観たけど、果たして偶然なのかな。

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