チラ裏レベルの人生記(仮)

自分が自分で無くなった時に、自分を知る為の唯一の手掛かりを綴る、極めて個人的な私信。チラ裏レベルの今日という日を忘れないように。6年目。

やっぱり腕時計をしないと手首がスースーして仕方ない、時間気にしい症候群の私。

今朝方、どういうワケか何度も中途覚醒したせいで、時間通りに起きる事はできたものの眠り足りない。こんなに覚醒したのはこれまで無かったから少し戸惑っている。歳のせいか、或いは単に気のせいか。ぴんぴんぽっくり型の病にでも罹っていてくれればありがたい。ぴんぴんぽっくりというのは、先日の土曜ドラマ「破裂」の中で佐久間が口にした台詞で、彼は更に「死ぬなと言うのは、時に死ねと言うより残酷」と私見を述べた。まさに我が意を得たりな考え方で、俺はこれが社会通念になって欲しいと思っているのだが、この程度の発言すら世間ではセンセーショナルな扱いを受けるのだろうか。生きている事自体が苦痛、或いは面倒だと、俺の様な社会的にはまだ若年層で一応健常者ですら思うのだから、これから齢を重ねるにつれて、いよいよぴんぴんぽっくりを渇望する事になるだろう。死へのハードルが高すぎる。

中途覚醒を繰り返し、浅い眠りを続けている間に、また不思議な夢を見てしまった。俺にはいないはずの兄が妻とさらにその妹を連れて、なぜか実家の団地に帰省したという設定である。最近、この団地を舞台にした夢が多いのだが、俺の記憶のリソースがいかに少ないかが如実に現れている。妹の方とは歳が近い感じだったので、俺は不思議とドギマギしていたのを覚えている。夢の中でも女性が苦手なのだ。何か話しかけられたが内容はよく思い出せない。しかし、顔はほんのり覚えている。フルカラーだった。

ところで先日、少しだけ遠出をした際に、ベルトを着けるのを忘れてしまった。自室を出て10分ほど歩いた時に気付いたから、戻るのはどうにも億劫だった。稀にこういう失態を演じてしまう。働いていた頃ですら、スーツなのにベルトをせずに出勤する様な事があった抜け作野郎だから、おいそれと直るはずもない。面接の時に社会の窓が全開だった事もある。ちなみにその会社には採用された。先日はタイトなデニムを穿いていたので、ベルトをしなくてもずり落ちる心配は無かったのだが、腰回りがスースーするから不快で仕方なかった。これと同じような感覚が腕時計をしない左手首にもある。年初に転んで腕時計が砕け散って以来、左手首がスースーする感覚に未だに慣れずにおり、なんというべきか、刀を差さぬ武士の様な心境で、外出時はどうにも心許ない。俺は時間に追われない生活をしているクセに、常に時間を分単位で把握していないと不安になる性分である。携帯が普及した現在では若者の腕時計離れ的な風潮があるらしいが、携帯では腕時計の様に瞬時に時間を確認できないし、それはスマホであっても同じだろう。やはり腕時計が必要だ。アラホーのおっさんが着けてもギリ無問題レベルの安価な腕時計を探してみよう。